白浜温泉 崎の湯
更新日:2024年03月13日
目の前に雄大な太平洋が広がり、波しぶきが届くほどの最高のロケーションです。湯壷は万葉の時代より残る歴史あるもの。波の音、潮の香り、綺麗な空・・・大自然と歴史を存分に感じながら入浴を楽しんでいただけます。
※崎の湯は、お風呂のお湯が海に流れるため、シャンプー・リンス・石鹸などをご利用いただけません。
所在地 | 和歌山県西牟婁郡白浜町1668番地 |
---|---|
電話 | 0739-42-3016 |
営業時間 | 8時〜17時 ※状況により、営業時間の変更及び入場制限をすることがあります。 |
定休日 | 無休(ただし、メンテナンス等による臨時休業があります) |
入浴料金 | 3歳以上500円 |
割引 | 障害者無料(介助人含む) |
備品 | タオル200円 コインロッカー100円 自動販売機あり |
風呂の種類 | かけ流し露天風呂 |
泉質 | ナトリウム塩化物泉 |
源泉名 | 行幸源泉(みゆきげんせん 供給元:湯崎温泉観光株式会社) |
泉温 | 78.0度 |
湧出量 | 測定不能 |
性状 | 透明・中塩味 |
効能 | 神経痛、関節痛、慢性皮膚病、婦人病 など |
交通 | JRきのくに線白浜駅から明光バス新湯崎行きで約15分、湯崎下車、徒歩約5分。 紀勢道南紀白浜ICより車で約15分 |
駐車場 | 15台 |
歴史
白浜が温泉地として世に知られるようになったのは、今から約1400年前の飛鳥・奈良朝の頃で、その走りが「崎の湯」です。その頃の「崎の湯」は、「牟婁温湯」と呼ばれており、「日本書紀」や「万葉集」にも記されています。
斉明3年(657)、時の孝徳天皇の皇子である「有間皇子」が、この「崎の湯」に逗留され、その「有間皇子」の薦めで木の根険しい山坂をいとわず、翌年には、「斉明天皇」が、大宝元年(701)には、「持統天皇」「文武天皇」が行幸され、また熊野詣での往来に、「後白河法皇」をはじめ、都の貴族たちが沐浴されており、道後・有馬と並んで日本最古の三湯の一つの温泉とされています。
その頃の「崎の湯」は、砂岩に浸食された窪みが自然の湯舟になっていて、海を眺めながら入浴していたとされており、本当にのどかな自然のままの磯風呂で、今日の「崎の湯」もその頃を感じさせています。詩人である中村憲吉(広島県出身:アララギ派の重鎮)は、崎の湯のことを次のように歌っています。
『遠い世の女みかどを慰めし、紀伊のみゆきはこの湯にありき』
西暦 | 元号 | 記事 |
---|---|---|
657年 | 斉明3年 | 有間皇子が来遊し、斉明天皇に「牟婁温湯」を推賞する。(日本書紀) |
658年 | 斉明4年 | 斉明天皇が皇太子(後の天智天皇)と共に「紀温湯」に行幸する。(日本書紀) |
685年 | 天武14年 | 『牟婁の湯は没れて出でず』と紀伊国司報告。(日本書紀) |
691年 | 持統5年 | 持統天皇が紀伊に行幸する。(日本書紀・万葉集) |
701年 | 大宝元年 | 文武天皇が太上天皇(持統天皇)と共に「牟婁温泉」に行幸する。(続日本書紀) 牟婁温湯・武漏温泉・紀伊温湯が湯崎の温泉であることは「紀伊続風土記(鉛山の条)」、仁井田好古「湯崎温泉碑文」、宇井可道「牟婁温泉考」で証明されている。 |
1733年 | 享保18年 | 儒者・祇園南海来遊「鉛山紀行」「鉛山七境詩」を著し、「崎の湯」を金液泉として、鉛山七境詩の一つに数える。 |
幕末 | 「崎の湯」が藁屋根であったのを瓦葺きとする。 | |
1878年 | 明治11年 | 「崎の湯」浴室北側の三間へガラス戸6枚を差し入れる事になっていたが、以後、外国人が入浴に「罷越候ハ硝子戸ニテハ不体裁」との理由で、村民塾議の末に板戸に変更する。 |
1879年 | 明治12年 | 「日本温泉案内」の著者、内務省の御雇外国人へ—スト氏(オランダ人)が湯崎温泉七湯を激賞する。 余が日本において、これまで分析せしアルカリ泉の最も善良なるものは、紀伊の国に在るものとす。 就中殊に著しきは、浜湯・阿波湯・元湯・崎湯・鉱湯等なり。 鉛山の鉱泉之に亜ぐ。 伊豆及び伊勢等のアルカリ泉は、其勢甚だ微弱なり 紀伊の国の鉱泉は、未だヨーロッパ人の日本在留する者よく知らざる所なるも、もとよりフランスのヴィシー、ゲルマンのエムスに劣らざるものなければ、他日之と比肩して盛大を致さんことを期すべし。 吾かく説くは、其信ずべき実証ある故なり。 現に京都に在る日、之を分析検査したり云々。 |